巴里 巴里 巴里
巴里 巴里 巴里
僕の好きな街は 紐育 Broadway
The Lion KingにCATS
City of Musical だから
僕の好きな街は 倫敦 West End
地下鉄 Leicester Square の 地上に出て
三軒目のチケット売り場で
時間切れのプライスダウンしたチケット
ズボンのポケットに突っ込み
たとえば Grease
たとえば Mamma Mia!
たとえば 誰かがくすりと笑ったら波紋のように広がって大爆笑となる
My Fair Lady
ブーツを履いたパンプな女の子たちが行列して
観られなかったが
僕の好きな街は 巴里
鉛色の空の下のセーヌ川
歴史が刻まれた
かって白亜であったであろう石造りの建物
なぜか美しいエッフェル塔
セーヌ左岸13区のホテルの部屋のTVから流れる
ポップな若者の歌にも
どこかシャンソンの香りがして
ベルリン~ケルン~マインツ~ケルン~パリ&パリ北駅での思い出
ベルリン中央駅で座席チケットを確保してアムステルダムへ向かうため列車に乗り込みました。
アムステルダムへはケルン中央駅で乗り換えます。
ケルン中央駅の前はライン河です。
今日は天気が良く、車窓から見たライン河は陽の光できらきら輝き、川岸に157mのケルン大聖堂が見えて絶好の眺望でした。
眺めに魅了されているうちに、ケルン中央駅での乗り換えを忘れ、
気が付けば、列車はライン河沿いを南に下っていました。
仕方なく、明日はパリのホテルの予約があるため、アムステルダム行きを諦めました。
今日の行先は、
①シュトゥッガルトまで行き、明日パリに向かう
②コブレンツかマインツに泊まり、ケルンに戻りパリへ行く
か、迷いましたが、
結局、
シュトゥッガルトは到着時間が遅くなるので止め、
②に決まりました。
コブレンツ、マインツはいずれも以前自転車旅で滞在した街なので、ともに懐かしくどちらにしようか思案しましたが、
車窓から見たコブレンツは観光客で混雑していてホテルを探すのが難しそうだったので、マインツに泊まることにしました。
マインツでは駅前のホテル断られましたが、歩いて数分の所に無事チェックインすることができました。
マインツの街の裏通りは、落書きがしてあったり、ごみが散らばっていたり、以前とは違った印象を受けました。
翌早朝、ライン河まで散歩した後ケルンへ向けて出発しました。
ケルン中央駅ではパリ行きの新幹線タリスの出発時間が迫る中、
座席指定券を得るためにドイツ鉄道のチケット売り場に行きましたが、長い行列が出来ていました。
友人がちょうど居合わせた駅員にどうしたらいいか訊ねたところ、
新幹線タリスはフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ四か国による共同出資で設立された会社なので、
駅の外へ出て通りを隔てた向かい側にあるオフィスに行かなければならないことが分かり友人が大急ぎで購入に走りました。
タリスはケルンを昼過ぎに出発し、パリまで3時間24分の所要時間で到着です。
ブリッセル近くになると雨が降り始め、
暗い空と、濃い赤茶けた建物のブリッセルの街々、延々と続く線路際の壁の落書きが印象的でした。
車内ではパスポート提示の検問があり、ドイツやオーストリアやチェコとは違った雰囲気を感じ、午後4時過ぎにパリ北駅に到着しました。
北駅には十数年前に訪れましたが、その時と較べるとアフリカや中東系の人が増えたような気がしました。
また北駅には思い出があります。
十数年前、シャルルドゴール空港から高速郊外鉄道RER B線に乗るため、ドゴール空港駅で切符を買うとき、時差ボケかぼんやりして前の人と同じに言ったら11枚綴りの回数券を買ってしまいました。
北駅で払い戻しを受けるよう指示され、北駅に着いてオフィスに行くとここではだめ、00事務所へ行けと地図を書いてもらい、そこへ行くとここではだめ他へ行って払い戻してほしいとあちこちたらい回しされ、
その度毎に柵を乗り越えたり改札を出たり入ったりしているうちに、
怪しい者と誤解され、鉄道公安官4人に取り囲まれ羽交い絞めにされました。
言葉は通じないし、どうしようかと焦りました。
とっさにポケットに入れた回数券を見せたら、
なぜか彼らは笑顔になり無罪放免された記憶があります。
地下鉄でホテルに向かおうとしたのですが、北駅の中に僕たちの乗る地下鉄の駅が見当たりません。
構内をうろうろしているうちに、駅は廃止され乗車するには雨の中を200m歩かなければならないことが分かりました。
途中で乗り換え雨の中、ホテルに到着しました。
ぶらりベルリン
ベルリン中央駅の中に、スーパーマーケットやドラッグストア、カフェ、レストラン等があり大勢の人が乗り降りしていました。
2006年の開業だそうですが、駅の外はまだ再開発地区で殺風景です。
まずホテル探しです。近郊電車Sバーンに乗り、西ベルリンの玄関口ツォー駅へ向かいました。
温かい陽ざしが降り注ぎ、あちこちのオープンカフェではコーヒーやビールを飲みながら休暇を楽しむ人でいっぱいでした。その多くが観光客なのかな、とちょっと心配しました。
案の定、ホテル探しは軒並み断られ、難航しました。また、頼みにしていた観光案内所も見つからず、仕方がないので中央駅に戻ることにしました。
太陽が傾く夕暮れ近く、ツォー駅のすぐ向かいにあるドイツ最古の動物園から子供たちが笑顔で出て来るのと対照的に僕たちは疲れて言葉数も消えていました。
中央駅に降りて、探すこと、二軒目でホテルにチェックインすることが出来たのでラッキーでした。
翌日は早朝から地下鉄Uバーンに乗り、二駅目のブランデンブルク門で降り、かって壁があった道路を南へ行き、ポツダム広場から南東へ進み、それからべルリンの東側の地区を周り夕方まで歩き周りました。
日曜の早朝のブランデンブルク門 1788~1791年プロイセン王国の凱旋門として建てられた
ユダヤ人犠牲者記念館 ブランデンブルク門から南へ100Ⅿ 2711本のコンクリート製ブロックが現れる
東西ドイツ統一後に再開発されたポッツダム広場の商業施設
ブランデンブルク門から南へ800m
ユダヤ博物館は、中心街から外れた静かな地区にあったが、館内は校外学習なのか引率された中学生でいっぱいでした。
戦後73年経っても過去の歴史を風化させない現実認識を、僕たちも学ばなければならないと感じました。
チェックポイントチャーリー(旧国境検問所)GIに扮して、検問所前で面白おかしくパフォーマンス。観光客用写真撮影の商売かな?
ベルリン大聖堂 ホーエンツォレルン王家の墓所
午後のブランデンブルク門で踊る人々
ベルリン中央駅前を流れるシュプレー川の川岸で、午後の太陽を楽しむ
シュプレー川と遊覧船
プラハからベルリンへ
CEIなどの長距離列車が発着するドイツでも最大級のベルリン中央駅
中央駅周辺は再開発地区でまだ殺風景
中央駅前を流れるシュプレー川
左手ドーム頭だけを出している建物はドイツ連邦議会議事堂
プラハ~ベルリン間はICEで4時間40分の旅です。
ドイツの新幹線は、基本的に座席はフリーですが、座席を確保したい人は前もって座席券を購入する「任意予約制」のシステムになっています。
僕たちの座席は予約されていて、次の駅で座席チケットの持ち主が現れ、どくように言われ席を追い出されてしまいました。
ちなみに他の国の新幹線は全席指定でした。
そのことをすっかり忘れていました。
列車は、混んでいたので空いている席はありません。
どうしようか迷っていたら、乗り合わせた日本人が、
数両先に自転車用の車両があり、簡単な椅子があるからそこに座ったらよ
いと教えてくれました。
そこへ行くと自転車用車両にかかわらず、自転車はなく、座れなかった
人たちであふれていました。
ラッキーなことに、別々にシートが2つ空いていたので、友人と別れて座
りました。
隣の女性はパートナーの男性にしきりに話しかけ、男性は優しく頷き、女性は笑ったりはしゃいだり一人賑やかでした。
いつか僕に話題が向くかもと思っていたら、案の定話しかけられました。
「どこの出身?どこを周ってきたの?」と、型通りの会話をして、話題が途切れたので、話題を探してたところ、パートナーの男性が、アメリカのTVドラマ「スーツ」の登場人物によく似ていたので、その話で大いに盛り上がりました。
4時間40分の列車の旅は隣席のアメリカ人との会話であっという間に過ぎました。
英語は苦手だが、ボディランゲージでなんとか通じるものだと、今後の旅行にちょっと自信が湧いてきたかな。
。
プラハ ウィーンは着飾った中世ならプラハはすっぴんの中世
14世紀神聖ローマ帝国以来の王宮
全長520mのゴシック様式のカレル橋とスメタナの交響詩「わが祖国」で有名なモルダウ河と王宮
王宮から旧市街地方面
プラハ本駅から外へ出ると、ウイーンの建物とのギャップに驚きました。
ウイーンが着飾った中世ならば
プラハはくすんだ中世に見えます。
の聖ミクラ―シュ教会に囲まれた旧市街地の広場に立ち、
目をつぶると、
自分が中世の一庶民であるかのように感じる雰囲気がそこにはありました。
カフェや土産物店などの屋台が並び、観光地特有の猥雑さがありますが、
広場は、イースターの休日を楽しむ観光客で混雑していました。
馬車が一台通れるくらいの細い道のカレル通りを
モルダウ河の方に向かうと、
橋の向こうの小高い丘の上にプラハ城が構えていました。
チェコの通貨はクロネなので、店ではユーロは使えなかったり、
使えたとしてもお釣りはクロエだったりして大変不便でした。
両替所には長い列が出来ていましたが、二日間の滞在なので工夫
をしてしのぎました。
国々が重なり合うように存在するヨーロッパでは、統一通貨ユーロは利便
性が高く、またEUは人々の交流、物資の移動が自由に行われ、
このことはお互いの垣根を取り払い、これまでの過去の幾多の争いを解決する最善の
策のように感じました。
EUがもたらす利便性や自由は、政治的、財政的に意見の対立や軋みがあっても、やはりヨーロッパの人々の希望を表しているように思いました。
ウィーンⅡ 心の宗教であるべき宗教
ウィーン シュテファン寺院
ヨーロッパを旅するとキリスト教会はつきものです。日曜日にあたったレーゲンスブルクの大聖堂ではミサに参加し聖歌隊の歌声を聴きました。
しかし、僕は教会に行く度に疑問が湧いてきます。
なぜ教会は壮厳で豪華でなくてはならないのか。
なぜ薄暗い内部に蝋燭を灯し非日常的空間を演出しなければならないのか。
なぜ聖歌隊の讃美歌は天井に反射してまるで天使の歌声のように天から降り注がれなければならないのか。
若い頃、新約聖書を読みました。一回だけですので読解が間違っているかもしれませんが。
初めの章の方では、中東の荒涼とした大地で、一粒の麦、一滴の水を失った者の絶望は深く、深ければ深いほど救済を求める者は自ら歩みを進めて救済を求めていく様子が濃密に描かれていました。
しかし、章が進むにつれ、教会が人々を手招きする描写になり読み終えるのに苦労しました。
十数年前にヨーロッパを自転車で旅した時、ドイツのアウグスブルグからローテンブルクへ、村から村へと自転車を走らせたのですが、村々の中心には教会がありました。
昔アウグスブルグはローマカソリックの司教座都市であり、ローマカソリック教会の影響下にありました。
アウグスブルグに近い村ではカソリック教会。少し遠くなると一つの村にカソリック教会とプロテスタント教会。更にアウグスブルグから遠ざかるとプロテスタント教会だけになりました。
あくまでも僕が感じた個人的な感想であるということを分かって頂いたうえで、
心の宗教であるべき宗教が、教会の宗教に転移していくのは何故か、いつもヨーロッパを旅すると考えさせられます。