鴻上尚史さんの選考基準から「危うさの認識」

先日、TVで劇作家鴻上尚史さんがオーディション選考の基準として、

「役柄から自然にこぼれ落ちる何かを持っている人を選ぶ」

 と語っていました。

 例えば、清純な役柄を演じても、

 演じきれない中に、

その演じる人が本来持っている個性としての色気が、

こぼれ落ちる とか。

 

 私は、様々な方の話を聴く機会があります。

 それぞれの方は明快に自分の主張をします。

それはそれで根拠のある主張をします。

 その方々の話を聴いていくうちに、

物事には捉え方により正反対の見方が成り立つ場合

もあることに気が付きました。

 また、

 「それぞれの主張には正反対の意見が成り立つ危うさ」

 がつきまとういうことも。

 

 自分の主張の客観性を成り立たせるためには、その危うさを認識する

 つまり、

 「主張がある人は、まず自分の主張と反対の意見を知る」

 が、自分の主張を保証する担保のように思えるのです。

 

 危うさを認識していない、

もしくは危うさを分かっていながら知らない振り

 をして、

意見を述べる方は、時勢が変われば、衣替えのように、

 いとも簡単に自分の考えや主張を脱ぎ捨てる危険性

 を秘めているように私には思えるのです。

 

 「危うさがあるという自分の主張への心の含羞」

 がこぼれ落ちる思想家や政治家が出てくれることを期待します。