ウィーンⅡ 心の宗教であるべき宗教

 

 

 

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ウィーン シュテファン寺院

ヨーロッパを旅するとキリスト教会はつきものです。日曜日にあたったレーゲンスブルクの大聖堂ではミサに参加し聖歌隊の歌声を聴きました。

 

しかし、僕は教会に行く度に疑問が湧いてきます。

なぜ教会は壮厳で豪華でなくてはならないのか。

なぜ薄暗い内部に蝋燭を灯し非日常的空間を演出しなければならないのか。

なぜ聖歌隊の讃美歌は天井に反射してまるで天使の歌声のように天から降り注がれなければならないのか。

 

若い頃、新約聖書を読みました。一回だけですので読解が間違っているかもしれませんが。

初めの章の方では、中東の荒涼とした大地で、一粒の麦、一滴の水を失った者の絶望は深く、深ければ深いほど救済を求める者は自ら歩みを進めて救済を求めていく様子が濃密に描かれていました。

しかし、章が進むにつれ、教会が人々を手招きする描写になり読み終えるのに苦労しました。

 

十数年前にヨーロッパを自転車で旅した時、ドイツのアウグスブルグからローテンブルクへ、村から村へと自転車を走らせたのですが、村々の中心には教会がありました。

アウグスブルグはローマカソリックの司教座都市であり、ローマカソリック教会の影響下にありました。

アウグスブルグに近い村ではカソリック教会。少し遠くなると一つの村にカソリック教会とプロテスタント教会。更にアウグスブルグから遠ざかるとプロテスタント教会だけになりました。

 

あくまでも僕が感じた個人的な感想であるということを分かって頂いたうえで、

心の宗教であるべき宗教が、教会の宗教に転移していくのは何故か、いつもヨーロッパを旅すると考えさせられます。